そう言えば

三国志のことについて全然話してないことに気付く。しかし三国志等歴史の事は適当に検索をしたら大手サイトにたどり着くだろうし、別に誰も知らないような事実を知ってる訳でもないので気が向いたら適当に話そう。とりあえず今日は一番好きな武将でも…


一番好きな武将は「沮授」です。理由は聞くな。
一応「沮授」を知らない人の為に。

沮授(?〜200)広平県の人

若い頃から大志を抱き、2県の令を歴任後、韓馥に仕え騎都尉に任じられる。
しかし、これが彼にとって不遇の人生の始まりだった。


韓馥は冀州牧で事実上の一国の主である。しかし彼はかなりの弱虫であった。
冀州というのは中国の中心部にあり、物産豊かな国であった。しかし、弱虫韓馥は、こんないい国を持っていれば、いつどこから攻められるか物騒だから、そっくりどこかの勢力にくれてやろうかと言い出す始末。
しかし沮授は「冀州は兵百万、食料の備蓄も十年分あります。人に与える必要はない」と必死にとがめるが、結局、韓馥は領土、軍隊、人材の全てを一番強いと思った袁紹に譲ってしまった。


建安初年、漢王朝四百年の大義名分が役に立つと言う荀紣の勧めで曹操献帝を迎え入れたが、それより前に、沮授が袁紹に同じ事を勧めているが聞き入れて貰えなかった。
案の定、曹操献帝を迎え入れると「しまったと」後悔して、やっぱり献帝が欲しくなった。
建安五年に官渡の戦いで沮授は袁紹曹操を攻めることを反対した。
建安四年に公孫サンを攻め滅ぼし、その時の戦いで国力を激しく消費したため、数年は国力の回復をした方がいいと進言したが受け入れられず、大軍を率いて南下した。
沮授はその時負けを予感したのか、親戚を集めて自分の財産を全て分け与えたと言う。


最初の白馬の戦いで、袁紹顔良に出陣させたが、沮授は「顔良は強いが心が狭い。一人で行かせるのは危険だ」と言ったが、またまた聞き入れられなかった。結局顔良関羽に斬られて死んだ。
その後、袁紹は全軍を率いて黄河を渡ることに「兵を分けて一部を渡らせ、勝てば残りが渡ってからでも遅くはない。全軍が渡って負ければ、戻る事は出来ない」と進言したが、やっぱり聞き入れられなかった。


全軍渡河のちに文酬と劉備が出撃し文酬は敗れて死に、劉備は逃げ戻った。
沮授は「兵はこちらが多い、しかし質は向こうに分がある。食料はこちらは十分にある、しかし向こうは食料が少ない。こちらは持久戦が有利であり無理に戦闘を仕掛ける必要はない」と言うが袁紹はそれを聞かずに攻めた。
また沮授は「食料の集積地烏巣を曹操が攻めるかもしれない、淳于瓊の守備では心ない、援軍を送った方がいい」と進言するがやっぱり受け入れられず、結果、曹操は烏巣を攻め食料を焼き払った。これがきっかけで袁紹軍は大敗、袁紹は兵八万を失い二年後憂悶のうち死んだ。


沮授は曹操軍に捕らえられて、曹操に降伏して仕える様に頼まれたが、それを固辞し袁紹の元へ逃げようとしたので、やむなく殺された。


とまあこんな感じの人です。簡単に言うとリアルでついていない人です。まあ田豊の方がもっとついてないかも知れませんが。